「いじめ」と聞くと子供たちの学校現場を連想します。
しかしその学校現場で先生が先生をいじめるという事件も起こっています。そのような目で会社組織を見ると、
同じような「いじめ」が起こっていることに気づきます。人はなぜ人をいじめるのでしょうか。
自分自身の子供の頃を振り返って考えてみると、集団の中でみんなと同じ行動がとれない時、
みんなはできるのに自分はできない時、「いじめ」の圧力が強くなってくるような気がします。
人はなぜみんなと同じことができない人をいじめようとするのでしょうか。
自分がいじめる側に身を置いている時には、何となく安心感があります。
しかしいついじめの対象が変化するかは分かりません。昨日までいじめる側だった自分が、
今日からいじめられる側に変わった時の恐怖は、いじめられる側に立たない限り理解できません。
いじめられると心が傷ついていきます。心が傷ついて来ると体に不調が出てきます。
こうしていじめられた側は集団からはじき出され、その苦しみから逃れるために死を選択するというところまで追い込まれるのです。
このように考えるならば特定の人を集団でいじめるという行為は、その人を殺すかもしれない恐ろしい行為なのです。
そのような私たちに聖書は語ります。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と。
集団の中でみんなと同じことができないその人が大人であるならば、子供のように低い目線からその人を見る。
その時子供の目には、その人の優れたところがたくさん見えてくるのではないでしょうか。
言うのは簡単ですが実行するのは難しいでしょう。しかしそれを成し遂げてくださった主イエス・キリストという神様がおられます。
この主イエスという神様を信じて歩む時、私たちはいじめられている人の素晴らしいところをほめることができるようになります。