学校で働く先生たちの労働環境が悪化しているという報道を何度も耳にします。授業で教えるだけではなく、部活動の顧問も務めなければならず、
いくら時間があっても足りません。しかし働きに見合う残業代は支払われないという厳しい環境です。そのような中で、先生たちの不祥事の報道も絶えません。
先生が生徒に教える教育の現場は、日本の将来を背負う子どもたちが成長する場であることを思う時、日本の将来は決して明るくないと思わざるを得ません。
新約聖書は人間が神と共に歩む道を教える書物です。そこにはキリストという教師と、聖書を解釈して人々に教えることを専門にしていた律法学者たちが登場します。
キリストはたとえを用いて、人々に教えました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、
風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイによる福音書7章24-25節)と。またその逆のたとえを語られました。
「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」(同26節)と。当然ですが、雨が降るとその家は倒れてしまうからです。
キリストが聖書を通して語る言葉を行う人は、嵐のような苦しみが襲っても決して倒れないという教えでした。
これを聞いた群衆がキリストの教えに非常に驚きました。なぜならば、律法学者のようにではなく、権威ある言葉の力で教えられたことを感じたからです。
キリストという神が語る言葉には、神の権威があります。この言葉であるならば、それに従いたいと思わせる力があるのです。
聖書が語るキリストの言葉を聞き、その言葉を実践するようにして先生が教壇に立つならば、その先生に神からの権威が授けられ、
勇気をもって確信のある言葉を生徒たちに語ることができるのだと思うのです。