4年ほど前、一人の高齢の方が教会を訪ねて来られました。「20年ほど教会に行っていなかったのですが、もう一度日曜日の礼拝に出席させてください」とのことでした。
次の週の日曜日からこの方は、毎週欠かさず礼拝に出席するようになりました。コロナ感染症がまん延し始めたころ、
大事をとって日曜日にはご自宅で個人礼拝をささげるようになりました。礼拝で語られるメッセージの原稿をご自宅にお送りすると、
決まって週の半ばには、お礼と近況報告の電話がかかってきました。電話の最後で、いつも一緒に神に祈りました。
電話を通して新しい交わりが始まり、2年が経過したある日、ご家族から電話がかかってきました。
この方が外出先で亡くなったとのお知らせでした。教会で一緒に礼拝をささげるというまじわりを含めると、
3年という短い期間のまじわりでしたが、亡くなった後、改めてその方の存在の大きさを痛感させられました。
その時、この方が常に電話で言われていた、「私のような罪深い者を、牧師先生はいつも電話とお手紙で励ましてくださり、本当に感謝しています」との言葉でした。
キリストは聖書の中で、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った人について、「義とされたのは、すなわち神の前に正しいとされたのはこの人だ」と言われました。
神の前で自分の小ささ、自分の至らなさを告白する者にこそ、神はいつも寄り添って、その人を輝かせてくださるのです。