私たちには人に認められたいとの欲求があります。私たちの自己実現の思いはこの欲求から来るものだと思います。
この自己実現の思いによって私たちは様々な課題にチャレンジし、それを乗り越え成長していきます。
しかし年齢が進むにつれて、チャレンジの機会が少なくなったり、自己実現が上手くいかなくなったりします。
そんな時、私たちは何を思うのでしょうか。
イエス・キリストは聖書の中で語りました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
(新約聖書マルコによる福音書8章34節〜25節)と。キリストが教えている自分を捨てるとは、自分がなくなるということです。
自分の十字架を背負うとは、人生の苦難の中で自分の無力さを知るということです。
キリストは、自己実現とはおよそ正反対の自己否定の道を教えられているのでしょうか。
そんなことをしたら、人生を行くぬくことはできないではないか?と考えてしまいます。
自分の無力さを知らされた人間には二つの選択があると思います。一つは諦めてしまうという残念な選択です。
しかしもう一つは、無力な自分に神が働いて、人間の力をはるかに超える神の力によって、自分自身を神に用いていただくという選択です。
自分の持っている小さな才能を神に献げて、神に用いていただく時、私たちは自分では予想することもできない力によって、
神に生かされるのであります。人生の壮年期はもちろんですが、自分の力が本当に弱くなった老年期になっても、
神はその人の才能を豊かに用いてくださいます。そして自分では小さな力しかないと思っているその力を用いて、
神がその人を生かしてくださるのです。本当の自己実現とは、人間の小さな力による自己実現ではなく、
神の大きな力でその人が用いられるという「神による自己実現」なのです。