私たちは隣にいる人が何を考えているのか、どんな気持ちで過ごしているのかを正確に知ることができません。
もちろん「少し元気がないけどどうしたんだろう」とか、話をしてみると声に元気がないということは分かります。
しかし、その原因は分かりません。だから隣にいる元気のない人を言葉で励ますことはできても、
それが隣にいる人の本当の慰めになっているかどうかは分かりません。
旧約聖書には、ダビデという人が登場します。ダビデは8人兄弟の末っ子でした。
ある時神様は、預言者サムエルを通して、イスラエルの王様を選ぼうとしておられました。
そしてサムエルがダビデの父であるエッサイのもとに遣わされました。
サムエルは神様から言われたように、エッサイの息子から王様を選ぼうとしていたのです。
たまたまその場に末っ子のダビデだけがいませんでした。サムエルはエッサイに、息子を一人ひとりサムエルの前を通らせるようにお願いしました。
7人の息子たちがサムエルの前を通り過ぎましたが、王様にふさわしい人を見つけることができませんでした。
そして神様は預言者サムエルに言いました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。
人は目に映ることを見るが、主(神様)は心によって見る」(旧約聖書サムエル記上16章7節)と。
こうして8人兄弟の末っ子であるダビデが王様として神様に選ばれることになったのでした。
私たちは人の心の中が分かりません。しかし神様はすべてお見通しです。
だから隣の人のことを思う時には、「隣の人の心の中を御存じの神様、私がその人にふさわしい言葉を語れるようにお守りください」とお祈りをすると、
神様からふさわしい言葉が与えられます。